前震が発生した時はびっくりしましたが外来も普通にやることができ、まともに診療ができていましたので本震と比べればかわいいものでした。
本震が発生した時は全く違いました。熊本市内の自宅で寝ていて揺れを感じた時には飛び起きました。音で表現するならがっしゃーんときて、どーんごわーんごごごと尋常じゃない音がなりました。それはもう2階が崩れるんじゃないかと覚悟するくらい怖かったです。
揺れが収まってからその後の対応をはじめました。実は私は医師会の救急災害担当理事を務めていた関係で、災害に対する情報はよく聞いていました。講演会や研修会にも度々参加し、災害に対する初動であったりやらなければならない事は多少なりとも知識として持っていましたので、それに沿って進めました。
まず自宅を本部と定めて、すぐに病院に電話しましたがつながりません。ここで何とか連絡をつけてすぐでにも駆けつけたいという思いを持ちましたが、指示を出す人間が動くわけにはいきませんので「それはだめだ」と自制し、私は本部から指示を出すことに徹したんです。
市内に住んでいる職員からも「病院に向かいたい」との連絡がありましたが、これにも「危険だから行くな」と伝えました。それでも彼らは命がけで病院に向かい4時過ぎには病院に到着したと連絡が入りました。携帯は中々つながりませんでしたが、懸命に現地に向かった彼らと逐次連絡を取ってそこから現地の情報を入手し指示を出すことができました。
心配だった病院の患者と職員は奇跡的に全員無事でした。患者は70名、職員も8名いましたが全員が無事だったんです。
例えば普段なら冷蔵庫や本棚が沢山ある休憩室に介護士や看護師はいますが、たまたま地震が発生する前に状態が悪い患者さんがいて二人ともその病室にいたんです。心拍数がゆっくりになっている事を確認した介護士が看護師を呼んで、様子をみるためその部屋に一緒にいた時に地震が発生しました。地震後の休憩室はぐじゃぐじゃになっていて、もしもその患者さんにお呼びがかからず、休憩室にそのままいたら死んでいてもおかしくはない状況でした。
また、当直のドクターが常勤だったこともラッキーでした。停電して真っ暗な状態で更に院内が散乱している状況では、非常勤の先生だったらどこに何があるかもわからず何もできなかったと思います。普段から働いている先生だからこそ勝手がわかり動けたのだと思います。
そうした偶然がいくつも重なり、そしてその場にいた介護士や看護師も優秀だったこともあって全員が無事だったんだと思います。
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全員は無事でしたが、30名弱は寝たきりで3階に取り残されている状況だったため看護師をつけて「電気も吸引器も使えない状況だから管理をしっかり頼む」と伝え、動ける人は一階に集めるようと安全を確保するようにも指示しました。
そして夜が明けた頃に最初に確認してもらったのが裏山です。以前から病院の裏山は「雨よりも震度6程度の地震の方が危険」と話は聞いていたので確認を指示していたんです。すると「すでに少し崩れている状態」ということがわかりました。それでもう一度あの規模の地震がきたら裏山の土砂が全部落ちる可能性があると判断して、早急に他の病院に避難させる事を決めたんです。
※阿蘇立野病院と裏山の様子
朝一番に県の医療政策課に連絡し搬送の段取りを詰めました。私の方は受け入れ側の病院との交渉を担当し、患者の振り分けなどは県と災害時の医療チームであるDMATが実施しました。昼の13時半にチャーターした観光バス2台を病院に横付けし搬送を開始し、搬送には自分たち以外にも、地元の消防団員の方や立野地区の職員さん、丸野スタンドの方など近隣の人たちみんなに手伝っていただきました。誰一人転倒することもなく安全に移動させ、患者さんも普段は自力で痰が出せない人もこの時だけは自分で出して、寝たきりの人もそれぞれ必死にやり、白バイ2台による先導もあり18時半に全員が無事に搬送が完了しました。
ここまで一人も死者を出さず対応ができたことは私の人生最大の誇りです。本当に素晴らしいことでした。
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搬送も無事に完了し、急ぎで対応しなければならない透析患者に関してもDMATが透析ができる病院を選定し日曜にすべて手配もやりました。
そうした対応を終えた後は診療所の準備に入りました。立野病院が機能しなくなったということは、今までかかりつけで通っていた病院がなくなってしまったということでもあります。だからとにかくかかりつけの診療所、病院は難しいため診療所として1日も早く開かないといけないと思いました。
避難所巡りなどはDMATの皆さんやJMATの皆さんが全国からきて対応してくれます。そうした一時的なものはお願いをして、自分たちはその分診療所を早く立ち上げる準備をしました。
診療所の開設はとにかくスピード感が大事でした。場所は3月末までデイサービスの施設として利用していたところを使用し、その許可を得るため医師会や保健所に国会議員の先生や村長にも話をしました。みなさんに「それは先生早くしないと」と協力をしていただいて、診療所を開設することができました。
心置きなく準備ができたのもDMATやJMATといった全国の医療支援の方々がいたからこそですし、診療所が早く立ち上げられたのも沢山の関係者の協力があったからこそできた事でした。本当にみなさんのお陰です。
診療所を開くことができた一方で、辛かったのは140人いる正規雇用者を全員解雇しなければならないことでした。人件費は一月で4500万円かかります。何もせずとも毎月必ず4500万円が減っていき借金が増えていきます。民間ですから借金ができたとしても国が払うわけではありませんし、これは経営的にとても厳しい状況です。決断は断腸の思いでした。
今まで一緒にやってきた仲間に対して何も説明せずに解雇はできませんので、4月末に南郷谷と阿蘇谷と市内と3つに分けて説明会を開きました。その場で今の状況と病院の一時閉鎖、そして解雇する事を伝えました。これが一番辛かったです。
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立野病院の再建の判断は裏山の状態次第だと思っていました。最初の1ヶ月は地震が再度くるかもしれないと思い、どうなるかわからないと考えていました。それで1ヶ月様子を見ていましたが大きな地震もこず、雨もかなり降っていたものの、破壊的に崩落が大きくなる事はどうもありえないと状況を見て再建を決めました。
再建は厚生労働省の災害補償に適用されますのでいつ出るかはわかりませんが補償金は下ります。これは再建を考える上で重要なことですが、それ以上に上村家としては立野に縁がありそれを大事にしたいという思いがあります。
上村家はその昔男の子が途絶えた時があり、その時に養子を立野地区から迎えた経緯があります。立野がまだ瀬田村だった時代の話です。そうした経緯があるため上村家は立野地区には御恩があるんです。立野の住民で立野に縁がある上村家としては、立野に一人でも住民がいるならあそこに病院はおかないとという気持ちが再建の根底にあります。
ただ再建がいつになるかはわかりません。再建するにはまず道路が整備されなければだめです。道路がなければ病院を再建したとしても誰も来ませんので、57号線がどうなるか次第です。場所はいいところにありますので道路が通れば救急を入れて、CTなどもすぐ取れるようにはしたいです。
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平時であれば、超少子高齢化で村がどうなるかなんて事は考えたり、そうした声を聞くこともありません。そういう意味では震災があった事により「なんとかしなきゃ」となりますのでこのタイミングをチャンスと捉え、根こそぎ考え方から変える機会だと思っています。
病院もあって当たり前だと思われていて、道路もそうでした。今回の震災であって当たり前だったものは当たり前ではなかった事に気づいた若者はどう再興していくのか。
私は医療しかできませんから、医療を通じて人様の役に立ちたいです。自分ができる医療をもってその場所を照らして、そしてそこが明るくなる。皆さんも同じようにそこを照らして、それぞれの持場が光り輝いていくように一緒に一生懸命やれたらいいですね。
いろんなところから協力をしてもらい今があります。まだまだ始まったばかりでこれから長く再興の時間はかかります。どこかが困ったところがあればお互い様でご恩返しをするという気持ちをもって臨んでいきたいです。
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(いま、必要なことはなんですか?)
必要な事をあげれば際限なくありますが一番は気持ちです。それだけあれば十分です。実際にやるのは被災者ですから被災者がやる気にならないとだめです。やる気を継続するのはものではなくやっぱり気持ちになりますので、気にかける気持ちがあると嬉しいです。「頑張ってますね」と言われるだけで、それだけで半年は頑張れますから。