「1つだけ、逃げ場が欲しいんです」狩尾で動き続けた消防団員が求める地域に必要なもの

「1つだけ、逃げ場が欲しいんです」
狩尾で動き続けた消防団員が求める地域に必要なもの
2016-07-06 阿蘇市狩尾地区 鎌倉吉孝
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これを見ていただいている方はうちの集落について何もわからない方が多いと思うので、少しだけうちの集落について説明してから話を進めていきますね。

狩尾は阿蘇のカルデラで言えば北西に位置する集落で、真後ろには外輪山があり目の前には田んぼや畑が広がる地域です。山のすぐ側にあるので「山付きの集落」なんて言い方もします。人口は減少傾向にあって、どこもそうですがこの集落も少子高齢化が進み、近くの小学校も閉鎖しました。僕らの代と比較すれば今の子供の数は三分の一位になっています。

うちはその集落でガソリンスタンドと酒屋を営んでいて、自分で3代目です。元々はじいちゃんが商売を始めたんですが、その当時は近くに中学校もあって役場もあり村の中心的な場所だったんですね。それでここで商売を始めたんです。最初はよろずやのような店だったんですが、時代の流れとともに変化して今の形になりました。創業は1925年で、あと9年経てば100年です。

自分は生まれも育ちもここなんですが、当時はこの環境に何も思わなかったんです。それが高校時代、熊本の高校から家まで自転車で汗だくになりながら帰った事があって、その時に阿蘇に入った瞬間「ここすげーな」って気づいたんです。その時からですかね、家族や地域のおかげさまがあって、人もあったかくて、環境もとにかく素晴らしい阿蘇が大好きになったんです。

それで自分が大学生、親父が60歳の時に「商売を辞めようと思っている」と相談されたんです。阿蘇も大好きだしいつかは商売をやろうと考えてはいたので「それなら自分が継ぐ」と伝え、学校を辞めていきなり代表になりました。あれから16年が経過しました。

こういう流れで現在まで来ているので、ずっと狩尾で生活をして狩尾を見続けてきました。だから狩尾の事は分かりますし狩尾のことなら話せます。そして狩尾のためならなんでもするっていうのが僕のスタンスです。

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それでもう少し地域の事を知ってもらうために先に4年前の水害の被害についても触れておきたいと思います。

この地域は4年前の水害でも被害がありました。近くを流れる川が氾濫し、激流に囲まれ孤立する家も出て救助が必要な状況になりました。本当なら消防署が来て救助する場面でもあるのですが、この時は至る所で被害があったことと、来る途中で流木に引っかかってしまった事が原因で駆けつけることができなかったんです。そうなると、やれるのは地元の消防団しかいません。

消防団と一言で言っても、地区によって違いがあります。ルールも温度差も違い、隣同士で比較しても考え方は随分違うものです。それでうちの消防団はどうだったかと言いますと、ここはリーダーがいいんです。毎週用もないのに声がけして集まって麻雀しながら飲んだりするんですね。最初はめんどくさいし、忙しいし、でもしょうもなしに付き合っていたんですが、ずっと一緒にいると段々と仲良くなるんです。そういう環境があったから、結束力だけはとても強かったんです。

その消防団でこの時の水害の時も、激流の中ボートを出して助けにいきました。でも、川の流れが強すぎてボートも流されちゃうんです。凄くスリリングな状況なんですが、それでも雰囲気だけは良くて最終的には「どうにかやろうぜ」ってことで4人助けることができたんです。

この経験は消防団としても大きく、意識が変わった瞬間でした。動ける人がやらないと誰もやれない、次につないでいくための事をしていかないといけないんだと自分自身も気づいた瞬間でしたね。

こうした経緯があった中で、今回の震災がありました。

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前震が発生した時は自宅にいて、この時はそこまで揺れがなかったので子どもを抱えて収まるのを待ちました。こちらでの被害はほとんどなく、一方で益城の状況は確認していたので、次の日に商工会の仲間とともに支援物資を車2台山積みにして益城市役所まで持っていったんです。それで僕は仕事があったので物資を置いてすぐに帰ったんですが、まさかその時はその後に本震があるとは思ってもいませんでした。

それでその日の深夜です。本震がきました。ぐわーって揺れだして、とっさに子どもを抱えて、揺れが一時続きました。その後にどんっとでかい揺れが2回くらいあった時に、それまで聞いたことがないサイレンが鳴り響いてそこで「俺消防団だ」とはっと気づいたんです。それまでは消防団という意識もなく「うちが安全だからここに留まろうと」家族に伝えていたくらいで、ただ自分と家族の身の危険しか考えていませんでした。

それからすぐに消防団の班長に電話をしたら「お前はなにしてんだ!はよでてこんや!」って怒られたんだけど、その時はまだ意味がわかってないんです。寝室は普段から何も置かないようにしているので、散らかっているわけでもなく、うちは大丈夫だと思っていたのでその段階では周囲の被害を想像すらしていなかったんです。

怒られたし、深夜だけど外に出るかと思いながら班長と電話で話をしていると「100メートル先の家が潰れて生き埋めになってるぞ」って言われて、それはやばいじゃないのと気づき、覚悟を決めました。家族にはその場で「今から俺は消防団だ」と伝えてもしもの事を考えて車に行くように指示しました。さらに近所の人で消防団あがりの方がいたのでその人から指示があれば従うようにと伝えました。

そのやり取りを終え、寝室から廊下に出ると色んなものがぐしゃっと倒れていて足の踏み場がない状況でした。これには驚きました。その状況を見るまではそうした被害がある事さえも想像をしていなかったので、ここでようやく本当に普通じゃない事に気づいたんです。

そこから一階に降り、本気で動けるように団服に着替え、再度家族に話をして現場に向かいました。

現場に到着すると家が潰れ、本当に生き埋めになっていました。呼びつけたわりには消防の姿はなく、それで自分でライトをつけて中を確認すると、人がいるのが見えたんです。それで「大丈夫かー行きてるかー?」って声をかけると、「大丈夫だー」って返ってきました。見るとタンスが重なってできた隙間に空間があって、ちょうどそこにいたんです。怪我もなく、本人はiPadで熊本がどうなっているのか見ていました。それで消防団は他にいなかったんですが、消防団上がりが二人来たのでその二人に救出をお願いして、自分は急いで小学校に向かったんです。

そこで消防団と合流して状況を確認しあい「怪我人の有無で優先順位をつける」という方針を決めました。家が潰れていても無傷なおばあちゃんより、例えばタンスに潰れて大怪我をしているおばあちゃんの方が救出する順番としては先だと判断したんです。

そこから消防団は班に別れて、被害の確認に向かいました。声をかけて安否確認が取れない家もあったんですが、そうした家も無理やりあけて確認を進めました。それで確認作業をしながら最初に声がけをした潰れた家にもう一度向かったら、そこは消防上がりの人たちがすでに救出作業を終えていました。深夜の2時から3時位でしたが、うまく全体で連携は取れていたと思います。それで確認作業も無事に終わり、その後学校のグラウンドにみんなで集まったんですが、揺れが凄くて休むこともままならないような状況でした。

それで、朝に近づき周囲がうっすら明るくなった時にどこからか「山がねぇ」と聞こえて来たんです。以前から山が崩れる時はにおいがするという事は聞いていて、この時も地震直後にはすっぱいにおいが漂っていたので、もしかしたら崩れているかもしれないと想像はしていました。想像はしていましたし、それまでは色々ありながらも冷静だったのですが、実際にそれをリアルに見た瞬間は恐怖を感じました。今回の地震ではじめて取り乱した瞬間かもしれません。形が変わった山の姿を見た時はそのくらいの怖さがありました。

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集落後方の山崩れの様子

そこから、夜が明けて今度はガソスタの準備をしました。うちには大掛かりな自家発電機があったので、それを16日から稼働させてガソリンを出せる状態にしたんです。ただ在庫はなかったんです。ちょうど16日の午前にタンクローリーが来るように手配をしていたんですが、地震の影響で来れなかったんですね。だからその日は、一般車両は断って、公共車両と緊急車両、それに建設関係の車両に限定して入れました。

タンクローリーも最初は16日中の配達は無理だと言っていたんですが、「絶対にこい!」とお願いをして夜には来てもらいました。それで在庫も戻り、翌日から一般車両も受け入れができるようなったんです。

受け入れに関しては全日本石油協会が発行している震災発生時の対応マニュアルが役立ちました。偶然なんですが、1年前に朝礼でやることがなくなっていて困っていた時期があったんです。それで半ばしょうがなく手元にこのマニュアルがあったので、毎日1ページずつ読んでいくことを習慣化していたんです。「こんな事ないだろうけどね」とか言いながら読み進め、もしも震災があった時にうちならこうするという事も考えていたんです。これがずばっとはまりました。

1日目が終わった後に従業員に話をして、こういう風にやろうと決めて、翌日の朝から準備をしました。開店前から敷地内に入っていた車に一度出てもらい、それからコーンとバーを使って導線を作りました。数量も限定した上で、混乱に気をつけて一台ずつ入れ、その間に並んでいる車の先頭に話をして手順を説明しました。

噂でうちが開いてることが伝わって、その日から怒涛の200メートル渋滞が発生しました。みんな車中泊をしているのでそうなるとガソリンはインフラです。その全員に行き渡らせる必要があるので、買いだめだけはしないでくれとお願いをして給油をひたすら進めました。3日間はそんな状況で、それが過ぎるとある程度は落ち着きました。最初の3日間は凄かったですね。

マニュアルもそうですが、コーンもバーもなんとなく購入をしていてそれも偶然でした。発電機にしても東日本大震災の年にたまたま購入して、そこから5年書けて配線いじったり準備をしていました。まさかこんな事になるとは思ってもいなかったので、整備をしている時は発電機はお金がかかっているしこんなの意味ないよなあと思ったりもしましたが、今考えればこの日のために俺たち用意してたんだなと思いました。自分も消防をやっていて、人命がかかっている瞬間に遭遇したら無条件で消防や公用車には満タンにいれることができるスタンドにしたいとは常々思ってはいたので、その準備がここに活かされたという感じはします。

こんな感じで日中はガソリンスタンド業務を行い、夜は消防団で見回りをして、不眠不休が特に最初の2週間位は続いていました。この時の密度は凄かったですね。

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ゴールデンウィークの直前あたりで消防団はみんな、限界は来ていました。少しづつ落ち着いてきたら今度は地域の困り事が全部消防団に回ってくるんです。例えば塀を片付けて欲しいとかおばあちゃんから依頼があったりするんです。すぐにやってあげたい気持ちはあるんですが、その前に優先順位が高い方から先に取り組むので、どんどんやることが山積みになっていったんです。

そうした状況だったので次第に余裕がなくなり、団員の中には「家族とよそとどっちを守るのか」といった問題が出てきたり、団員の家族も含めてまずい感じになりつつあったんです。内部崩壊するかもしれない、そんなぎりぎりの状況がありました。

そんな状態だった時にボランティアさんが来てくれたんです。ブロックの片付けなんかはそのボランティアさんたちがやってくれる事になり、それで消防団の緊張の糸が一気に緩和され助かりました。ボランティアさんが焼き鳥を振る舞ってくれたこともあって、それも子どもたちも大喜び。関西の連れがでっかい箱で何万発と花火を送ってくれて、それもその時に子ども達と一緒にやって、それで奥さんもみんな喜んでくれました。

最初の2週間はハード的な部分が多かったんですが、そこからは少しずつ役割が変わって心の動きだとかそうした所のケアをする必要がありました。

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そこから更に落ち着き始めたんですが、今度は田んぼの問題がありました。震災前までは川の水をポンプアップして配管を通して用水路に流していたんですが、地震でポンプが壊れて配管も壊れてしまったんです。さらに用水路も壊れて、田植え時期までの復旧は難しくいつ直せるかもわからない状況でした。

僕らの地区はほとんどがサラリーマンなんですが、専業農家の方もいてそうした方の場合家よりも何よりも農作物を作る事が第一優先になるんです。田植えをして収穫をして市場に持っていかないと生活ができなくなってしまいます。

だから水がでない問題はとても大きな困り事で深刻だったんです。それが、なんとそれまでずっと枯れていた近くの産神社の水が出始めた事がわかったんです。しかも、この水を利用すれば用水路さえ直せば田植えができることもわかりました。正に奇跡的なドラマが起きたんです。

そこからボランティアさんと農家さんと協力してその用水路を直し、田植えができるようになりました。それでこれはこの機会にきちんと復興祈願をしようという想いが生まれ、1000人田植えという催し、政をすることになったんです。偶然と成り行きで決まり、6月4日に人を沢山呼んで大勢で田植えをすることになりました。この時も危険がある場所には立ち入らないように、安全な場所を確認をして実施しました。

それが終わって、今度は梅雨に入り雨が降り始めるとまた緊張状態に入りました。もう間もなく終わると思いますが消防は今も毎日のように詰めています。

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梅雨の大雨では実際に新たな土砂崩れが発生した

それでここからが確信なんですが、正直今は怖いです。こういう事があったので仲間からも「阿蘇も住みきらんけん」と話したりするんです。実際にここから離れた人もいます。そう思うのは当然で、止めるつもりもありません。

ただそれでも、やっぱりここが好きなんです。他の残ってる連中だって100%とは言えないにしろ、ここが好きだと思っている人が多くいます。それで色々考えるんですが、昔からこうして災害はあったはずなんですよ。それを昔の人は神話なんかに差し替えてうまく後の世代に残してきたんだと思います。もちろん災害に向き合わないといけない、でもだからと言って悲壮感があるような場所にしたいんじゃないんです。僕もやっぱり昔の人みたいに神話じゃないけど、格好良く付き合いたいと思うんです。

その上で1つだけお願いができるならば、逃げ場が欲しいんです。この地区には近くに川が一本通っていて、この川がとても氾濫しやすくなっています。この川が氾濫するとまず南にいけなくなり、道は東と西だけになります。その東西の道というのが外輪山を並行する道で、山沿いを何キロも走らなければならない道です。もしその山沿いの道で土砂崩れがあればここは完全に孤立してしまう場所になってしまうんです。実際に地震でこれだけ崩れることがわかったので、今後は土砂災害にも十分な警戒が必要です。

今の避難所の体育館は雨が降ると床上になるような場所で、水害の場合は避難場所として適さない場所にあります。車で行くと車ごとやられてしまう、そんな場所にあるんです。土砂災害から逃げようと思って山から離れても水に弱い場所に行き着き、かといってそのまま残れば土砂災害に巻き込まれる危険性が高まってしまいます。今までは土砂災害についてはそこまで想定されていなかったのでしょうがないのですが、現在はこうした状況なので逃げる場所を確保するという意味で、絶対に安全な場所を設ける必要があるんです。

さらに、避難指示が出る前に避難できる場所があれば良いと思うんです。例えば仲間でお母さんと二人暮らしの人がいるんですが、雨が沢山降ったり危険な状況の時は仕事に行く前にお母さんを避難所に置いてそれから会社に向かったりしていました。震災直後は避難所が常設されていましたが、今はありません。避難指示が出れば開設されますが、その前に逃げれる場所がないんです。だから危険な地区に住んでいるにも関わらず仲間が仕事中の時はお母さんは家にいるしかない状況になっています。それで今日まで乗り切っています。こうした方もいるので、常設で普段から入れるような避難所を整備する必要性を感じているんです。

あそこに逃げることさえできれば大丈夫だと言える場所があれば、ここに住むみんなのストレスもなくなると思います。今は大雨が降っても川が氾濫しないように、山がただ崩れない事を願うしかできないですから。

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避難に適した場所は川の向こう側にあり、そういう事であれば…と土地の所有者も協力的な場所があります。そこに避難場所を作りたいんです。避難場所にはトイレやお風呂さらに料理ができる場所があればベストで、もちろん寝ることができるスペースも用意したいです。

できるだけ過ごしやすい環境を用意したいのですが、それにも理由があります。人によって「他人に迷惑をかけたくないから」といって避難をしない方もいるんです。例えば自力で立ち上がることが難しい方であれば、体育館のように床に座るだけのスペースだとかなりしんどいんです。心の中では「他人に迷惑がかかる」と思っているから無理にそうした場所に避難させても、誰かに助けを求めるわけでもなく、ただただしんどくなり持病も悪化していきます。みんなが健常者ならそれでもいいんですけど、そうではない方もいて、そのいきづらさを無視するわけにはいかないと思うんです。今回の震災を通じてそうした方にも配慮した避難所が必要だと現場を見て感じています。何も設備まで用意して欲しいというわけではなく、箱さえあってその箱を避難所として自由に使って良いという事にさえなれば、あとは使いやすいように自分たちで設備を足していきたいと思っています。

こんな事を言えばどこの地区だって必要だと言われると思います。確かにそれはその通りで、こんなわがままを言ってはいけないとも思いますが、それでも今回の震災を通していざそういう場面に直面した時に必要だとはやっぱり思うんです。

仮に今後地震が収まって大丈夫だと仮定して、避難所が不必要かというとそうではないんです。ここは地震以外にも水害はちょくちょく発生してますし、15年程前に鉄砲水の被害もありました。そうした被害を考えても、避難所はやっぱり必要だと思います。

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実は昨年から移住定住に関するプロジェクトを進めています。これも消防団の活動を通して見えたことですが、子育て世代がいなくなり限界集落に近づくにつれて、地域を管理することができなくなるという危機感があります。このまま少子高齢化が進めばその結果、若い世代の負担がどんどん増えていき大変な事になっていきます。

少子高齢化を防ぐには何も移住者を増やすだけでなく、ここのお年寄りの子ども達がみんな帰ってくればそれでも良いのだと思います。しかし、ここでできる仕事は限りがあり、求める仕事が違う場合はみんなどこか仕事で出ていってしまい、結果お年寄りだけが残り今があります。だから広く呼び込みをして、条件はいろいろありますが若い人を入れていく事で地域が円滑になればいいなと思い、移住定住の話を進めています。内心ではここってこんなにいいところなんだぜって本気で思っているので、気に入る人もいるんじゃないかと思っています。

ここからは勝手な妄想ですが、もしもこの地域に常設の避難所を作れたら、平時はこの移住定住プロジェクトで使うことができれば良いなと思っています。体験移住などの拠点や宿泊先としても使えるし、場所があればそうした使い方もできると考えていました。もちろん、これは災害とは直接的には関係がないので主旨にあうかどうかはわかりませんが、そうした考えはあります。

避難所にしてもまだ具体的なものは決まっていません。どこかいいアイデア、助けがあれば是非教えて欲しいです。自分も狩尾のためになるならなんでもします。

この生まれ育った狩尾という場所がやっぱり好きなのでどうにかしたいという気持ちは常にあります。この地域を残せるようにこれからもなんでもチャレンジしてやっていきたいですね。

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鎌倉吉孝
有限会社鎌倉商店3代目。阿蘇市出身在住。大学在学中に家業を継ぎ、代表を務める。昭和51年5月5日生まれ。

有限会社鎌倉商店

業種 ガソリンスタンド・酒類・食品販売
営業時間(ガソリンスタンド) 7:00~20:00(日曜7:00~-17:00)
定休日 第三日曜
郵便番号 869-2235
住所 熊本県阿蘇市狩尾1273-1
電話番号 0967-32-0278
FAX 0967-32-1101
再開予定 再開済み
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インタビュー・テキスト:三上和仁 撮影:甲斐弘人
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