阿蘇と益城は調子こいとったんだよ。
阿蘇は何もせんでも人は来るし、何をやってもあたる。益城はどんどん大きな工場ができて、郊外のベッドタウンにもなって調子こいとった。みんな、言ってる。俺ら調子こいとったって。水害の時にも噴火の時にも味わったことがないパンチを食らって、本当の人のあたりがたみがわかったっちゅうかね。それくらい今回の地震は強烈だった。
うちには子供が4人もおるから、地震の時はまずは車に入れて。親父もお袋も車に入ってもらい、その後町営住宅が裏にあるから、そこのおばちゃんを消防団として助けにいって。結局そのときはそのおばちゃんたちがどんどん車に入ってくるから、4人で寝てね。
明け方阿蘇大橋が落ちたから確認しに行くという人にマウンテンバイクを貸したり、朝になったらまずは姉から電話がきて兄貴とも連絡がつながって。それで今は炊き出しがいるからって、その準備をして。うちにも米は沢山あるし、旅館からも米がたくさんきて、それでうちで炊き出しして、どんどん避難所に持って行ってということをしていたら、ワンセグからどんどん情報がはいってきてね。凄いことになっていることを確認して、まだええほうじゃんってことはそのときわかった。家はガスだけ止めれば後でいーやってことで、写真を保険用に撮っといたり、初日はそんな感じ。
そんで2日目くらいから、どうしようかということを考えだすわけよ。みんな1週間くらいこれからどうしようってことを考えていたんじゃないかな。うちはゴールデンウィーク前に店をオープンして、なにかあったら座布団かぶってくださいって張り紙出してね。こういう時でもなんかおもしろいことは探して、なんとかこれで大丈夫かなーって、その頃はそんな感じだったね。
そりゃ4年前の水害もこの辺は凄かったよ。家の中に田植えみたいに土が綺麗にあって、しかも断水してるからどんどん固まって。畳を捨てるところからはじまって、泥を出して片付けをして土埃が舞って掃除してを4回位繰り返してね。
その時にも色んな人に助けてもらって。水害の時は内牧と一の宮だけがひどくてね。それで、全国から支援物資をもらって、毎日毎日うちに支援物資が集まってくるのよ。そしてそれを毎日分配して。毎日くるから、毎日頭を下げ続けて。毎日毎日。そうするとどこかで脳の感覚が変わってくるんだよ。毎日それがずっと続くから、何かが爆発してしまうような感覚があって。
今回もそうなんだけど災害は10日目くらいで喧嘩がはじまるんだよ。どっかで、フラストレーションがたまって、そのイライラは何なのか、正義感ってなんなのか。何が一番正しいのか。ボランティアがきたのにボランティアと一緒に手伝わないといけないという感覚、支援物資の分配で疑心暗鬼になったり、いろんな変なことがでてきたのは10日が過ぎた頃だった。補助金を巡る話なんかもそうで、今でも何が正しいかわからん。店を早くあけるほうがいいのか、休業して補助金をもらうほうがいいのか。どっちが正しいかはわからんよ。もともとこの商店街は一致団結していて、相手がみえて、絆がある。固まった集合体があるから、地震の影響がある。
水害のときは18店舗が閉店に追い込まれて、そのあと1年半かけて22店舗増えて、元より増えた。温泉があるし、観光地だから、なんだかんだ魅力はあって、店を出したい人はいる。一方で全国共通の商店街の問題点として、商店街が家になるってことがあって、一歩間違えると遺言で誰にも貸すなとか、土地を売るなとかっていうのもある。商店街で店をやめたらさっさと譲って、次に回していかないといけないし、それが商店街で生まれたものの責任だと思う。そうならないように18店舗、閉めるならでていってくれと僕みたいな若いのが説明してまわって、お金の話も次に入りたい人との間を取り持って説明して。そこまでやらないと次の人が出店できないんだよ。都会の人と田舎の人が結びつかないんだから誰かがやらないと。ここは車が通る場所でもないし、JRが走っているわけでもない、都会でもない。ほんとは喉から手が出るほど個人で好きにやりたい。でも、それだとやっていけない商店街なんだよ。危機感があるんだよ。
最初はそういうのもわからず、25歳で帰ってきた頃は髪の毛も染めてとんがっていた人間だった。それが消防団に入って、商工会に入って、ボランティアなんかの良さも教わって、いろんな人にさんざん怒られながらここまできたんだよ。
30年前、自分が小学生だったころはこの辺はまだまだ賑わっていたんだけど、バブルがきてみんな海外とかテーマパークに目が行くようになって、黒川とか湯布院とか新しい温泉街もどんどんでてきて、それでだんだんと観光客が減っていってね。
それでもうちの近くには農協もあるし、役場もあるし、銀行もあったから平日の昼間は人がいっぱいきていて食堂は繁盛していたんだよ。それに仕出し屋で地元の人に商売していたこともあって、当時は内需拡大が一番だ、観光客なんていらん、なんてことを言っていてね。
それが市町村合併でその辺がなくなって、さらに台風20号の被害なんかもあったから、この街は終わっていくって言われて。僕は終わらん終わらんっていっていたけど、実際に終わろうとしていて。
そんな時に門前町の宮本さんに色々教えてもらってね。門前町は当時の内牧以上に寂れていたと思っていたんだけど、それがどんどん変わっていて、木を植えてお客さんがいなくても命があるだけで躍動感があるだろうなんてことも言われて。
内牧にもライダーハウスの吉澤さんがきて、あの人と話してずいぶん変わったよ。世の中があの人向けになったのか、あの人が世の中を変えたのかはわからないけど、あの人がきて阿蘇の観光がぐるっと変わった。僕らが知ってる阿蘇の観光地は草千里に大観峰それに阿蘇神社くらいしかなかった。それが町湯巡りに、山の小道に、雲海ツアーだとか。雲海なんてそれまで写真家が写真を撮るくらいでツアーにするとかそういうものはなかった。押戸石もそう、鍋ヶ滝もそう。地元の人はそこに客が行って喜ぶのか、歩かせていいのかって感じだったけど、一緒に行ったら確かに喜ぶねーってわかって。遊び方がどんどん変わっていったよ。
そうした事を通してまちおこしのことも教わって、自分でも考えだした。観光客はいらんって言っていた僕が、観光客を呼び込まないとだめだとなって、それではじめたのが赤牛丼。12年前、当時はお金もなくて、どうしようって。赤牛は経費はかかるし、なにより僕は今まで牛を使ったことがなくて。それでもそうしたものに手を出さないといかんとなり、その時からなんとなくそれまでの方針を変えて、地元の人も大事に、観光客も大事にする仕組みというのを考え始めて。
※今ではお店の看板メニューになった赤牛丼。
先輩にも色々連れてってもらって、色々いわれて、みんな若い女を意識しろっていうんだけど、だんだん頭にきて、どうせなら若い女が絶対こない店にしようって。ぶれなかったのはいまきん食堂はいまきん食堂だってことで、おしゃれになってはいけないと、生きていく上でもそれが必要だと思っていた。ターゲットは戦前戦後の人で昭和懐メロを流して、従業員も若い女は絶対雇わない、60代以上なら即採用、そんな感じでやっていた。
それでお客さんが少しずつきたときに、バイクの人が来てくれて。男3人でカフェは入れないし、汗はかいてるし、そういうのが似合う店を求めていて、だからうちに来てくれた。店の味も大事だけど、まずは自分をうって、できるだけ話をして、そしたらバイク乗りがどんどん来てくれて。ミルクロード走っていまきんに行くっていう流れができてね、週末は100台200台と来てくれるようになった。バイカーには本当に感謝しているんだけど、それがいつの間にかそのバイカーが入れないほど、若い人がどんときて。そして今の状態になった。
そうした中で水害があったあとに宮本さんに「お前がせないかん仕事ってなにか?調理場にたって赤牛をつくることがそんなに大事か?」って問われて。一番大事なのはお客さんが戻るこつ。それを利用して、もっと地域のためになるようなことをしていかないととなった。
そこから公園作ったり、撮影スポットを作ろうと思ってでっかい椅子のオブジェを作ってみたり。内牧温泉セットっていうのを作ったり、自転車で走る人が喜ぶマップ作りをしたり、うちが観光協会みたいな、そんなことをしている。
※巨大な椅子のオブジェ。
ほんとはパチンコにも行きたいし、例えばニューヨークに行って遊べるだけ遊びたいよ。でも、自分を安心させるために偽善だとしてもやらないといけないし、自分のやりたい方向があっても自分の子供が4人も生まれると4人が暮らせる街は作っていかないと。ここに帰って仕事しろよと言えるようにしたいし、ここで好きなことをしろとも言えるようにしたい。
地震から1ヶ月は元に戻したかった。
当たり前に人がいて、風呂があって、笑えて。普通ってすげーなって1ヶ月位は考えて。でも、2ヶ月経つとだんだんこれは攻めないといかんってなる。今までは待っていても自然と人はきた。それが攻めないといけない。ぐしゃっとなった紙を伸ばしても跡形はついているから、それは人にはやれないよ。元に戻すのではなく、新しくはじめないと。沈んだらはねないといかん。さらに仲間と協調していけばさらに飛べる。そういう気持ちが強い。
一方で罪悪感もある。僕達が頑張って売って売って売りまくったあとに、益城、西原がその後復活した時に日本中の人が復興に、熊本地震についてどう捉えているか。東日本大震災と比較すれば死者は少ないかもしれないが、それでも地震は激しく、それは益城西原をみればよくわかる。だから全体の復興は時間がかかるが、その前に周りの比較的元気な地域がいいとこ取りして、そこには本当に罪悪感があり、ジレンマがある。
だから、ある程度道筋がたって、この辺だと南阿蘇がもう少し回復した時に、ここら辺だけではなく全体を巻き込むような企みをしたいと思っている。目的地から目的地まで円になるようにイメージはできていて、阿蘇には知られていない良いところがまだまだあるから、観光地がないなら新しく作ればいいと思っている。もちろん今の段階で遊びに来てもらうことが一番嬉しいことだけど、時間をかけて徐々に遊びに来てもらえるようにしていきたい。
そうした取り組みもしながら、この街を絶対に、絶対復活させるよ。