「じっとしていても変わらんからね」注目を集める門前町商店街 丹波屋4代目に聞く次の一手

「じっとしていても変わらんからね」
注目を集める門前町商店街 丹波屋4代目に聞く次の一手
2016-07-07 阿蘇市門前町商店街 岩永芳幸
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阿蘇神社界隈は昔から街の中心地として賑わいがある場所でした。他の地区からここに来る時は一張羅を着ていくような場所で、自分が子供の時も活気があってずいぶん賑わっていた事を覚えています。

今の賑わいを見ると想像がつかないかもしれませんが、当時は観光客がくるような商店街ではなかったんです。地元の人だけで賑わっているような昔ながらの商店街だったんですが、そうした賑わいも人口減少などもあって30年位前からどんどん寂れていったんです。

かたや阿蘇神社にはその頃から何十万人という参拝客がきていました。商店街としてこの参拝客をまったく呼び込んでいないのはもったいないという事に気付き、観光客を呼び込む仕組み作りを始めたのが20年前です。

この時は親父たちの世代が動いて、水基を作り出したんです。この辺は湧き水が豊富に湧いていて昔から各家庭でも生活水として使っているんですが、せっかくだからその湧き水をお客さんに自由に使ってもらおうと考えたんです。それで、せっせと湧き水を利用できるように水基を作って、湧き水を利用したまちおこしをはじめました。

しかし、水基を作って湧き水を出しただけでは中々お客さんも増えず、少しずつまた悪くなっていったんです。そうした状態が続いた中で、自分たち若い世代も危機感を募らせていき、1つの転機から動き出す事になりました。

きっかけはとり宮の杉本さんでした。杉本さんが若い世代が集まっているタイミングで「5年後、10年後商売できると思ってるんか」とみんなに問いかけをしたんです。それまで、みんなが口には出さないけどやばいよなあと思っていたタイミングだったので、「俺も思いよった」と賛同する意見がどんどん出てきたんです。それで、じゃあ皆で何かしようかとなり、生まれたのが「若きゃもん曾(わきゃもんかい)」なんです。

この土地に住んで商売をして商店街を盛り上げたいという気持ちがある人みんなで若きゃもん曾を結成して、この頃から一緒になってイベントを開き始めました。それがちょうど14年前です。当時は杉本さんが代表でした。イベントで盛り上げる以外にも一緒になって勉強会をしたり、例えば「30分間お客さんを滞在する仕組みを作る」といった具体的な目標を決めて動いたりもしました。

そうして若きゃもん曾がイベントを開催する一方で親父世代も水基の後に桜を植える活動を始めたんです。最初は杉本さんの親父さんが一人で地権者の人に話をして、せっせと植えていました。それを見ていた他の親父世代がそういうことなら加勢するばいってことでみんなでやり始め、今では春になると桜が満開になり商店街の雰囲気がすごく良くなりました。

そして、気づけばイベントやおもてなしは若きゃもん曾が担当し、景観作りは親父世代が受け持つ形でうまく役割分担ができていました。そうした互いの積み重ねがあり、観光客がゼロだった商店街に今では年間35万人の方に来てもらえるようになったんです。こうした流れがあった上での今回の震災でした。

tanbaya003※木々も印象的な門前町商店街の風景

震災直後の話をすると、本震が発生した時は近くの自宅にいました。どーんという衝撃と同時にこれはやばい、とにかくやばいから外に出ようと思い飛び出しました。そこからまず実家に向かい親の安否を確認し、周囲で若いもんが年寄りを誘導している様子が見えたので、一緒に年寄りを広場に集め、車中泊へ誘導しました。電気も水道もとまり揺れも続く中、若いもんは外で色々と話をしながら時間を過ごしていて自分もそこにいました。

そうした中で3時頃に「楼門が潰れとる」という噂が流れてきたんです。阿蘇神社の楼門は地域の重要なシンボルで、あって当たり前の存在です。それで最初に聞いた時は信じられず、鳥居が倒れるとかそういう事だと思っていました。それでもみんなが言うので、見に行ったら本当に潰れていました。これにはもうびっくりしました。まさかのまさかです。時間が経過した今では「そうなった以上はしょうがない」と受け止めてはいますが、見た時はもう…たまらなかったですね。

それで夜が明けて、その日の日中から商店街のメンバーと地区の消防団で炊き出しをはじめました。最初は作れる量もわからなかったため、近所の人にだけ声がけをしていましたが、支援物資が届いてからは炊き出しもしっかりできるようになった為、エリアを広げて提供しました。炊き出しの情報を消防団と一緒にアナウンスしてまわったり、支援物資の配布や、夜は消防団で見回りもしました。

そうした活動をしながらも、ここは商店街なのでどこかで区切りをつけて商売を始めなければなりません。それで皆で話し合い、4月25日を目安に準備ができた所から始めることを決めました。うちもその日を目標に片付けを進め、とりあえず営業ができる状態にしました。

この時はお客さんが来ることを期待していたというより、早く日常に戻したいという気持ちがありました。店を開けて灯りがつかないと、周りの人も元気になりません。そういう気持ちがあったんです。

ゴールデンウィークは当然お客さんは少なかったんですが、それでも思ったよりは来てくれたと思います。まだまだ余震が続いている中だったので来てくれたのは本当に嬉しかったです。

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ある程度時間が過ぎた今でも、客足が回復したとは言えない状況が続いています。こうした状況ですので、阿蘇は大丈夫、元気でやっているということを発信していく必要性があると思います。国道が寸断しているといってもこれないわけではありません。現に発生直後のゴールデンウィークでも来てくれている人はいましたので、一から色んなところで情報発信をしていく必要があると考えています。ここでできるイベントを企画して考えることも当然必要で、逆に外にでて売りに行く、というのも必要です。

とにかく、じっとしていても変わりません。動くにしてもできることしかできませんので、だとするとできることを確実に一歩ずつやっていく事が大事だと思っています。

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阿蘇神社は再建に6~7年かかると聞いています。阿蘇のシンボルは潰れてしまいましたが、俺らは今から阿蘇神社が阿蘇の復興のシンボルになると思っています。楼門がだんだんと再建している様子が復興のシンボルになり、再建すれば前よりも人が来ると思います。だとすれば再建した時にお客さんがどれだけきてもいいような受け皿づくりを今から進める必要があり、そうした準備を進めることができるタイミングだとも思います。門前町商店街で商売するものとして阿蘇神社に協力できることは必ずしていき、自分たちもそうした準備を進めていきたいと考えています。

1日に何万人もくるようなイベントは簡単にはできません。それよりもいつもの1日1日がどれだけ良くなるかが大事です。自分たちがやりたいことは何なのか、地元の人達が喜ぶことはどういうものなのか、商店街が潤うにはどうすればよいのか。阿蘇神社の復興を見守りながらそうした事を日々考え、地域の再活性化をしていきたいです。

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岩永芳幸
門前町生まれ門前町育ち。小中高と地元の学校に進みそのまま家業を継ぐ。現在は創業103年丹波屋の4代目、有限会社丹波屋代表取締役を務める。門前町活性化チーム「若きゃもん會」代表。楽団 THE YOSHIYUKI団長も務める。

楽団 THE YOSHIYUKI
「商店街で世代を超えて100年続く楽団」をコンセプトに2015年に結成された楽団。ギター担当。

有限会社丹波屋

業種 雑貨、文房具、駄菓子屋
営業時間 平日-08:00~19:00/土日祭日-09:00~18:00
定休日 不定休
郵便番号 869-2612
住所 熊本県阿蘇市一の宮町宮地1857-1
電話番号 0967-22-0115
FAX 0967-22-3598
e-mail tanbaya@aso.ne.jp
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インタビュー・テキスト:三上和仁 撮影:甲斐弘人
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