「村はどこよりも大事な場所」 南阿蘇村行政が担う復興の道筋

「村はどこよりも大事な場所」
南阿蘇村行政が担う復興の道筋
2016-06-27 南阿蘇村復興推進室 園田秀也
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前震があった時は村内の自宅にいました。うちでは犬を飼っていて、その犬と遊んでいた時にぐわーっと揺れだして、犬と身構えていました。そしたら動物って勘で感知するってよく聞きますが、うちの犬は揺れてから「わおーん」って鳴き出したので「遅いよ!」と、そんなやり取りがあった程度に前震が発生した段階ではまだ余裕はありました。揺れが収まった後、自宅の隣に両親が住む家があり声をかけ無事を確認してから役所に向かいました。

22時には災害対策本部を設置して情報収集を始めたんですが、それでも目立った被害は多くはなかったので少し安心して、「大変だったね」と話せるような雰囲気がありました。

問題はその2日後に発生した本震です。本震が発生した時は、自宅で寝ていました。本震は本当に凄くて、気づいた時にはもうジャンプするような揺れで「これはまずいぞ」と。それで部屋にあった懐中電灯で照らしながら出ようとしたら足元にはコップなんかのガラスが散乱していて、これはそのまま歩いたら足を切るかもしれないと思い、冬物のスリッパを履いて出ました。

隣に住む親の所へ行き無事は確認できたんですが、前震の時と違い今度は瓦が落ちていて、中もめちゃくちゃだったので両親を外へ出したんです。すると、そこに近所のおばちゃんがうちにきて。うちは土砂もこない場所にあり、被害も起きにくそうな場所だったこともあり近所の人がみんな集まってきたんです。それで近所の人の無事を確認して、揺れも収まったのを見計らってうちで一番安全そうな場所に近所の人も移動しました。その後に車を出して庭に落ちた瓦でがたがたな道を走りながら役所へ向かいました。

役所に着いたのは2時を過ぎた頃でした。上下パジャマにさらにスウェットと混乱した格好だったんですが、それも防災服に着替えて、それから災害対応を本格的に始めました。

着いた時点では職員もまばらで、道が断絶していて来れない職員もいました。そうした職員には「近くの避難所の方に行って仕事をしてくれ」と伝えて、全員体制を指示しました。

地震の直後は携帯がつながっていたこともあって、そうした大きな指示を出すことはできていたのですが、次第に携帯がつながりにくい状況が続き、LINEだけが生きている状態になりました。

そのLINEを通じて「阿蘇大橋が落ちた」と情報が入ったのは明け方頃でした。これだけの規模だったので建設課が地元の建設業組合に依頼し被害状況を確認してもらっている時に、阿蘇大橋が落ちた写真が建設課のLINEに送られてきたんです。それが総務課にも回ってきました。あるはずの橋が真っ暗で最初は意味がわからなかったんですが、それを理解して本当にこれは大変な事が起きていると実感したんです。

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南阿蘇村は建設課と総務課が別の庁舎にあり、総務課がある久木野舎が災害対策本部、建設課がある長陽庁舎のほうが現地対策本部といった感じになっていました。そうした中で、電話がつながらないため互いに連絡を取り合うことが難しい状態となりました。本部に聞いて答えるという連絡すらもできない状況だったため、解決策として建設課側から総務課で責任を取れる人間を出して欲しいとなり、自分が行ったんです。そこからは長陽庁舎に行き業務をしていました。

しかし、ある程度の事までは自分の判断でできますが問題が大きい場合は本部に問い合わせをする必要もありました。電話FAXに電気もない携帯もつながらない。一分一秒を争う中で、取った手段は伝令でした。紙に「①問題はこういうものがある、イエスかノーか」といったものを書いて、職員を車で走らせたんです。いつの時代だと思いながらも書いて送って、そしてそれがまた中々帰ってこなくて。紙には沢山の事を書いて伝令を何回も飛ばしました。

震災発生後はまあ色んな問題が発生しました。例えば、物資の運び込みなんかもそうです。黒川地区は分断されていて、閉校した小学校の体育館にまずは自主的に非難されたんですが、東海大学の学生が何百人もいたのでその子達には東海大の体育館に移ってもらいました。その辺りは陸の孤島状態になっていたので、うちの職員に水や食料を背負ってもらい山道を歩いて届けさせました。似たような状況だった下野地区も若い職員が物資を背負ってゴルフ場や山を通って運びこむといった事もしました。水がないという情報が入っていたので、命の水だと職員を何とか飛ばしたんです。

さらに4月20日頃に今度は大雨の予報が出たので避難指示を出したんです。老人ホームが2か所あるんですが、1か所は土砂災害の危険区域だからもう1か所に移動して、キャパが超えた分の方たちをまた別の所に移したり、避難所の立野小学校も危険区域にあたるので立野小学校から今度は大津に移ってもらったり、そうした事もありました。

こうした様々な問題に応えるために業務は膨大に増え、職員はみんな役場に泊まり込みの生活が続きました。震災が発生してから4~5日は着替えにすら帰らず、その後も夜中の3時頃にその辺で寝て明るくなったら椅子に座って業務をこなす、といった状況でした。避難所運営にあたる職員ももちろんそこに泊まって業務にずっとあたっていました。

改善があったのは4月23日頃でこの時に応援部隊が全国から来ていただき、避難所運営、災害対策本部にも3~40人位入ってもらいました。自分たちがもっていないノウハウを持つ他県の防災担当の方に入ってもらい、調整をしてくれて「避難所支援班」「物資班」といった具合に班を8つに分けました。司令塔ができ連絡も取り合いどんどん回して、それで少しずつ改善されていきました。

最初の2週間は大変厳しい状況で、4月末の連休前までは職員の疲労はどんどん蓄積されていきました。いつも笑顔だった職員も表情が消えるような状態が続いて、張り詰める空気感もありました。応援職員の方にも協力をしてもらいフォローをして何とか持ち直して乗り越えていた時期でした。

そうした状態だったので、いつだったか忘れましたがお風呂に入れた時は「こんなに幸せなことってあるのか」って思った程でしたね。

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村長からは「被災者の立場で対応すること」と指示がありました。その言葉通りできるだけニーズには応えるようにしていましたが正直難しいものもあります。「行政が動かない」と言われることもありますが、そこにはきちんとした理由があり難航している背景があります。「1回安心させて、やっぱりだめだった」ではショックが倍増しますから、そうならないように時間をかけている部分はあります。

それを踏まえて今後の話をすると、まずは道路事情です。今はグリーンロード、ミルクロードのみの通行ですが、この道は冬になると凍ってしまいとても危険なため一刻も早く改善が必要です。すでに工事に入っているのは俵山トンネルです。ここのトンネル自体は損傷が少ないのですがその先の橋が状態が悪いということでどこかで旧道を通して通れるようにできないか検討をしています。その次に、阿蘇大橋の南側の阿蘇長陽大橋です。村としてはこの橋の一日も早い復旧を願っています。

57号線も絶対に開通が必要ですが、ここは最近も大規模な土砂災害があったように時間がかかります。また住宅政策にも関わっていきますが、57号線を通る立野地区に関しては復旧復興に関する情報をしっかりと提示した上で、住民の方の希望をまとめる必要があります。村に帰還する場合は公営住宅を建てることも考えられますし、今も立野駅の周りには古い公営住宅がありますのでそれを拡充して利用する方法もあります。色んな方法があるので何がいいかを考えてもらいます。立野以外でも被災した地域は沢山ありますのでこうして情報を伝えて、最後の最後まで被災した人、みんなが生活を再建するところまで、そこまでしっかりとやっていきます。

合わせて経済的な復興も重要です。今回の震災で仕事を無くした方は多く、特に観光業者はお客さんがこなくて疲弊していて、地獄温泉の清風荘、山口旅館にペンションや旅館も被災しています。グループ補助金を活用して再建する予定ではありますが、復活までにはまだまだ時間がかかります。農家も作付していた場所に土砂が来てしまったり考えられないようなことが起きていますので、そうした部分も含めてケアが必要です。

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最後に6月1日から始動した復興推進室についてです。ここは災害対策本部の中の1つの組織で、役所の中を横断的に調整する役割を持ちます。例えば、仮設住宅1つを取ってみても、建設を担当するのは建設課、箇所付けは復興推進室、さらに住民福祉課や健康推進課、教育委員会、保育所も関わっていきます。こうして沢山の課がかかるにも関わらず、これまでは全体を取りまとめて連絡を取るような組織はありませんでした。それをやるのが復興推進室で、連絡を取り合い連携を取れる状態にすることで様々なことがスムーズになります。調整をすることで時間は短縮し、精度も高めていく役割を担っています。さらに復興計画を作るのもここが担当になります。

今までの業務を持ちながら復興推進室の担当にもなるためとてもハードにはなりますが、それでも南阿蘇村で生まれ育ったものとして村はどこよりも大事な場所です。時間はかかりますがいつか「震災があったけどこんなに良くなったんだ」と言われるくらいやっていきます。ずっと伸びていく復興の中の一人として微力ながら力を全部出しきっていきたいと思います。

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【お知らせ】
義援金もまだまだ受け付けています。南阿蘇村に直接の義援金は必ず被災者に届きます。支援金でもいいですし、ふるさと納税でも構いません。どうぞよろしくお願いいたします。

◆南阿蘇村への義援金を検討されている方へ
http://www.vill.minamiaso.lg.jp/site/28kumamotozisinn/gien.html

◆南阿蘇村のふるさと納税(さとふる)
https://www.satofull.jp/vill-minamiaso-kumamoto/

※この記事は2016年6月27日に取材した内容に基づいて作成されています。

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園田秀也
南阿蘇村出身在住。大学卒業後村の職員となり、企画課、税務課などを経て現在は総務課に所属。2016年6月1日から復興推進室室長に任命され村の復興の中枢を担う。

南阿蘇村役場(久木野庁舎)

開庁時間 08:30~17:15
定休日 土日祝
郵便番号 869-1411
住所 熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陰145-3
電話番号 0967-67-1111
FAX 0967-67-2073
website http://www.vill.minamiaso.lg.jp/
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インタビュー・テキスト:三上和仁 撮影:甲斐弘人
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