「あいつの分まで頑張ろう」東海大阿蘇キャンパスの学生が語るあの日から今

「あいつの分まで頑張ろう」
東海大阿蘇キャンパスの学生が語るあの日から今
2016-06-30 東海大学農学部 仁平悠里子
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前震の時は野球部の寮にいました。野球部のマネージャーをしているので、寮で部員にご飯を盛っていた時に揺れました。ガス台が倒れて、食器もプラスチック製だったので割れはしませんでしたが床に落ちてきました。余震が凄かったので中にいると何かが落ちてくるかもしれないと思い、その夜はみんなで外に布団を持ち出して集まって寝ました。朝には落ち着き4月15日は普通に練習はありましたが、学校は地震の影響で休講になっていました。

部活が終わり夜の9時半頃に家に戻りました。うちの隣には友達が住んでいて、その日はその友達が地震が怖いからって同じ学部の友達を部屋に連れてきていたんです。でも、その友達が先に寝ちゃったので、うちの部屋にきて話をしていたんです。そしたらベランダで猫が「うぎゃー」って鳴いているのを聞いて、冗談半分で「これ地震くるんじゃない」と話して、念のため避難バックを作りました。あんな大きな地震がきたばかりなので、まさかまた来ないでしょうと言いつつ、タオルや靴下それに懐中電灯、それと野球部で犬を飼っていたのでその犬の餌なんかもバッグに詰めて玄関に置きました。それでそろそろ寝るかーとなった時にぐわーって揺れたんです。

最初は「地震だ!地震だ!」とか言っていたんですが、電気が消えて「えっ」となり、とりあえず友達をコタツに入れました。揺れが収まってからも友達がパニックになっていたので、まずは外に出ようと思いました。靴を履かせてリュックを持って隣の友達も出てきていたので一緒に外に出ました。3人だと危ないと思い野球部の寮にはみんながいるからそっちに向かって走りました。ドドドという音や、ガス漏れの臭い、人の悲鳴も聞こえました。これはやばいと思いながら懐中電灯とスマホの光を頼りに寮まで走り部員と合流しました。

友達二人を同じ下宿の先輩に預け、私は部とともに動きました。とにかくガスの臭いが凄かったのでここは危ないから避難しようと判断し、犬も連れて長陽小学校に移動しました。寮からは布団やユニホームに上着なども持っていき寒い人に配ったりもしました。

長陽小学校では体育館が危険だったのでグラウンドにブルーシートが敷かれていました。何台かの車でシートが照らされていて、そこで友達がいるかどうかの確認をしました。外ではガレキに埋もれている人も沢山いて、不安だろうしとにかく声をかけにいこうと、男の人はみんな外に出て声がけを続けました。

夜が明けて周囲が見えてくると、山は崩れているし橋もない、下宿は斜めになってて家屋も崩れていて、まさかこんなにひどい事になっているとは思っていなかったです。朝の方は余震も少なかったので、この時に家に戻り取れるものは取ってきて、寮からもこの状態がどれだけ続くかわからないので食べ物なんかは全部持っていきました。

外からは最初にドクターヘリが来ました。ドクターヘリは重傷の人を優先的に運び、男子は外に助けに行って運んできて、女子は止血をしたり点滴を持ったりみんながやれることをやりました。その状態が昼まで続いて、全員運び終わったのが12時を過ぎた頃でした。

それから翌日が雨の予報が出ていたので、大学の体育館に移動することになりました。ただ野球部に関しては75人もいて、さらに試合も近くコンディションも気になったのでとりあえずその場に待機しました。その間にコーチが寝れる場所を探して、半分はお肉の加工場、半分は野菜のビニールハウスに移動しそこで夜を明かしました。

体育館の方は人がいっぱいだった事もあり、名前を書いて帰れる人は帰れることになっていました。車を持つ人から離れていき、この時点で最初の人数の半分位になっていました。また下宿単位で高森の方に避難するグループも出て、体育館に残るグループ、高森に移動するグループ、個人で帰る人の3つに別れました。野球部の方は寮生で車がないこともあり、この日は誰も帰りませんでした。

17日は朝から救援物資が届き飛び起きたんですが、その内容が水とチョコスティックパン一袋で「これで3~4人、3日間位いけますか?」と言われながら渡され、正直「無理だろ…」と思いながら受け取りました。農学部だから食べ物は沢山あるように思う方もいるかと思うんですが、春先だったので植え始めたばかりで収穫できるものはありません。収穫期ならまだ何とかなったかもしれませんが、それでも火もなかったのでどうだったかはわからないです。

部員はお腹をすかせながらも昼間はキャッチボールをしたりアクティブに動いて体をなまらせないようにしていましたが、この日は何人かの親が迎えに来たこともあって帰れる人は帰ってもいいことになりました。バスで来たお父さんもいたのでできるだけ帰らせて、その日の夜は残った20人位の部員とともに過ごしました。

次の日に観光バスが来て東海大生は全員乗って市内に移動することになり、野球部もバスで移動する事になりました。普段なら1時間で熊本市内まで着きますが、この日は大分からまわって移動して5時間かかりました。それで熊本市内の東海大まで行き、そこからは各自の判断になりました。

その後は学校を閉鎖するかどうかの連絡がなかった事が困りました。先に6月30日まで休講という情報は入っていたのですが、阿蘇キャンパス閉鎖の連絡があったのは6月に入ってからで、その間はみんなどうすればいいのかわからず憶測で動いていました。大学の情報よりも先に「戻れないかもしれない」という噂だけはどんどん広がっていたので、私も市内に住むための物件を探しはじめたんですが同じように探す人が1000人もいるので競争率が凄く高かったんです。しかも東海大の熊本キャンパスは回りに他大学が多く、4月なのですでに物件は埋まっている状態でした。そういう状況だったので中々見つからなかったんですが何とか家を探して、トラックを借りて引っ越しを済ませました。

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野球部の方は本当なら春の大会に参加する予定だったんですが、地震の影響により辞退しました。チーム状況がよく神宮も狙えそうで部としては活気づけるためにも逆に参加したかったんですが、そうもいかずやっぱりだめでした。

キャンパスが移動してからは部の環境も大きく変わりました。まず熊本キャンパスには野球ができるまともなグラウンドはなく、近隣の高校や社会人野球の方に借りたりもしています。住む場所もそれまでは全員が寮で暮らしていたんですが、県内に住む人は実家から通い、寮には地方出身者や通えない県内の人が住み、4年生は就活もあるので一人暮らしと別々になりました。新たに用意された寮にはお風呂もなく近くの日帰り入浴施設まで入りにいく必要もありました。

他にも環境の変化があって今は野球に集中ができない状態が続いています。部員も野球ができずにイライラしていて、チーム内の状態も良くなく、途方に暮れているところもあります。それでも、私はその野球部をどうにかして、立ち直したいと思っています。春の大会を見ていても自分たちがいれば…と思っていましたし、勝ちを取りに行きたいです。秋の大会では絶対に神宮に行きます。

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※この日は同じ東海大生である砂掛さん髙向さんにも話を伺いました。

予定では最低でも2年間は阿蘇キャンパスは閉鎖になります。その間は熊本キャンパスで過ごさなければなりません。応用動物科ですが、動物に触れる機会も減りました。

あの環境に惚れてきたので、阿蘇に戻れるのであれば早く戻りたいです。阿蘇にいた頃は「坂きちー」とか色々と文句を言うこともありましたが、離れてわかることもあって前の生活に少しでも近づきたいと思っています。

ただ、震災を通してこれから生きていく上での糧ができたとも思っています。今回の地震でもっとも辛かったことは仲が良かった友達を亡くしたことです。もう少し早く見つけられれば助けられたかもしれないと考えることもありご飯も食べれずきつかった時もありました。周囲の人が支えてくれて立ち上がれて、今は「あいつの分まで頑張ろう」と思えるようになりました。

そうした友達の事もあって震災の時は何がなんでも生きてやると思って過ごしていました。今後の人生で何があってもこの時の事を思えばそうそうくじかれないと思いますし、亡くなった友達の分も強く生きなきゃと思っています。

※この記事は2016年6月30日に取材した内容に基づいて作成されています。

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仁平悠里子
東京都出身。東海大学農学部応用動物科学科2年。硬式野球部マネージャー。

== 取材協力 =============

髙向紘子
福岡県出身。東海大学農学部応用動物科学科2年。

砂掛詩織
福岡県出身。東海大学農学部バイオサイエンス学科4年。

東海大学 阿蘇校舎

郵便番号 869-1404
住所 熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽5435
電話番号 0967-67-0611
website http://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/aso/
再開予定 暫定的に2017年度まで熊本キャンパスにて実施
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インタビュー・テキスト:三上和仁 撮影:甲斐弘人
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